yukkuritabiのブログ

ゆっくり旅する 日記と頭の整理と

運が良い人は努力しない 不運で不幸な人ほど努力する

運が良いと感じる時は決まって棚ぼた、だ。

努力が報われたー!と思う時、同時に人は運が良いとは思わない。

良かった〜と胸を撫で下ろすか、むしろ当然の結果であると思うかもしれない。

 

じゃあそれが報われなかったらどうだろう。

そういう時こそ運が無かった、と思うだろう。真面目な人は努力が足りなかったとか脳筋思考になるかもしれない。

 

まず努力とは何か、についてなのだが、人によって全然捉え方が違うかもしれない。

私の思う努力とは、自分の欲を抑えて嫌な事を我慢してする。である。

つまりは全く同じ事をやっていても、人によっては努力をしているし、人によっては全く努力していない、場合によっては楽しんでいる事もある。

 

身体を動かす事が好きで性に合っている人にとって、ランニングする事は気分転換であり、より楽しむ為の行為である。

しかし、運動嫌いですぐ太る人にとってランニングは只のダイエットの為の行為で、何の楽しみもない。これは努力だといえる。

 

始めに戻ると、運が良いと思う時は決まって棚ぼたである。

つまり、努力しない行為にくっついて来た望まぬ良い結果である。

 

同じ事、例えばランニングについて、ある人は楽しんでやっている、その結果足腰が鍛えられ、心肺機能は向上しより健康的な身体が得られる。

身体の健康は心理的な面にも良い影響を与える。その様な人に運が悪いと常々考える人はまあほとんどいないだろう。

そして場合によっては好きな女性、または男性に身体を褒められてラッキーとか思う事もあったりするだろう。

 

では、一方の運動嫌いの人にとってはどうだろう。努力してランニングを行っている。本来素晴らしいはずだ。

しかし、周りから見ると運動好きの人間と全く変わらない。実際には彼にとって運動をする事そもそもが苦痛である。ランニングをしても気分が良くなるのではなく、ストレスであるにも関わらずである。

 

この様な場合、彼が健康的な身体を手に入れたとしても、当然の結果だ。おれは、私は努力したんだ。努力しない人間はおかしい、などと歪んだ思考に陥る事もある。自分が運が良いなど露とも思えないのである。

 

何が言いたいかというと、実際のところ努力というものがどれ程いい加減で、人間の個々の持つ質に左右されるかと言う事である。

 

それに伴って運の善し悪しも実にいい加減であるかというものである。

 

つまり今の社会の規範に沿う物に、より親しい質を持った人間ほど努力を必要とせず、結果を得やすい、つまり運が良いと思いやすい、勘違いしやすい世の中になっているという事である。

 

よく言われる考え方を変えれば良いなどという言葉は生ぬるく、認知行動療法的に適切に行われない場合は、自分の感情を抑圧する行為に近く、より間違った健康的とは遠い精神状態に導かれる事になる。

 

好きこそものの上手なれ、はよく出来た言葉で、努力を伴わない行為こそ結果をもたらしやすいのである。

 

生きる事すら辛い人にとって、生きる事は即ち努力なのである。

努力の上で、嫌な事がふりかかるのは当然の結果ではなく、不幸で不運なのである。

 

松下幸之助が一時採用試験で、自分は運の良いか悪いか、という問いに運が良いと答えた人間を採用したという逸話がある。

これもよく出来た話で、時代に合った質の人間を簡単に選別する発明であったと思わざるを得ない。

 

結局のところ、自分の力が及ぶ事のできる範囲は思う程大きくはなく、自分が努力を要せずとも出来ることこそ選んで行う事こそが最善、幸運の近道なのではないかと思うのである。